こんにちは。越谷市せんげん台のパーソナルジム「トータルボディメイキングスタジオI’s(アイズ)」です。

「運動が嫌いなんです」と言って来る方がいます。最初は少し申し訳なさそうに、あるいは「だからダメなんですよね」という自己嫌悪を少しにじませながら。でも私はそれを聞いて、別に困ったとは思わないし、問題だとも思わない。

運動が嫌いなまま、体を整えていくことはできます。今日はその話を書きます。「好きになれない自分はダメだ」と思っている方に、読んでほしい内容です。


「好きじゃないと続かない」は本当か

よく言われることがあります。「好きじゃないと続かない」「楽しくなければ意味がない」「運動を好きになることが大事」——こういった言葉です。動機付けの文脈で語られることが多く、確かに一理あります。楽しいことは続けやすい。

でも本当にそうでしょうか。少し立ち止まって考えてみると、「好きじゃないけど続いていること」って、生活の中にいくつもあると思います。

歯磨きが大好きな人はあまりいない。でもほぼ全員が毎日続けている。確定申告を楽しみにしている人は少ない。でも毎年やっている。掃除が大嫌いな人でも、最低限の清潔さを保つことは続けている。これらは「好きだから続いている」のではなく、「やらないことの代償が分かっているからやっている」か、「もう習慣として染み込んでいるから考えずにやっている」かのどちらかです。

運動も、これと同じでいい。好きになる必要はない。やらないことの代償が分かっていれば、それで続けられる。あるいは習慣として染み込んでしまえば、好きかどうかに関係なく続く。「好きになれない自分はダメだ」という前提が、そもそもずれているかもしれない。


「運動が嫌い」になった経緯がある

「嫌い」という感覚には、必ず経緯があります。生まれたときから運動が嫌いだった人はいない。どこかで嫌いになった。その経緯を少し思い出してみると、「運動が嫌い」の正体が見えてくることがあります。

多くの方が思い出すのは、学校の体育の時間です。足が遅い、球技が苦手、水泳が嫌、体力測定で恥ずかしかった——こういった経験が「運動=恥ずかしい・苦手なもの」という記憶として残っている。大人になってからも、この記憶が「運動への苦手意識」として残り続けていることがあります。

でも大人になってからの運動は、学校の体育とは別物です。誰かと競わなくていい。上手くやらなくていい。人に見せるためにやらなくていい。自分のペースで、自分のためだけにやるものです。学校の体育で嫌いになったことと、大人のための運動は、名前は同じでも中身がかなり違う。

昔の嫌いを今に持ち込まなくていい。子どもの頃に嫌いだったことを、大人になっても嫌いでいる必要はない。人生のどこかの時点で、もう一度試してみることはできます。試してみて、やっぱり嫌いだったとしても、嫌いな理由が変わっているかもしれない。変わった理由に対しては、別の対処ができます。


「嫌い」にもいくつか種類がある

「運動が嫌い」と言う人の話を10年聞いてきて気づいたのは、「嫌い」の中身が人によってかなり違うということです。

汗をかくことが嫌い、という人がいます。この場合、汗をかきにくい種類の運動や環境を選べば、ハードルが下がります。

きつさが嫌い、という人がいます。激しく追い込まれることへの抵抗感です。でも体を維持するための運動は、必ずしも激しくなくていい。軽めの負荷でも、続けることで十分な効果が出ます。

時間が取られることが嫌い、という人がいます。これは運動そのものより、「まとまった時間を運動のために確保すること」への抵抗です。これも、短い時間に分けてやるなど、構造を変えることで対処できます。

人と比べられることが嫌い、という人もいます。体育の授業で恥ずかしい思いをした、スポーツが得意な人と一緒にやるのが辛い——こういった経験から運動全般を嫌いになっているケースです。パーソナルトレーニングが向いている理由の一つが、これです。誰かに見られながら競わなくていい。自分のペースでだけやれる。

「嫌いだから無理」ではなく、「何が嫌いなのか」を特定すると、嫌いじゃない方法が見えてくることがあります。

「運動が嫌い」という言葉の中に、具体的な何かへの嫌悪感が隠れていることが多い。それを特定するだけで、続けられる形が見つかることがあります。

好きな人より、嫌いな人の方が強いことがある

逆説的に聞こえるかもしれませんが、運動が嫌いな人の方が長続きするケースを、割と多く見てきました。

運動が好きな人は、始めるときのハードルが低い。でも同時に、「楽しくなくなったら」やめる理由が生まれやすい。特定のスポーツを楽しんでいた人が、怪我をしたり飽きたりしてやめる。新しいトレーニングが楽しくて続けていたけど、慣れてきたら来なくなった——こういうパターンがあります。

運動が嫌いな人は、最初から「楽しいからやる」ではない動機で始めます。「体を維持するために必要だから」「腰痛を改善したいから」「健康診断の数値が心配だから」——こういった実用的な理由です。この種の動機は、楽しくなくても揺らがない。むしろ楽しくないことを知った上で始めているので、楽しくない現実に驚かない。

好きなことへの熱意は波があります。でも「必要だからやる」という判断は、波が小さい。歯医者が楽しいと思って通っている人は少ないけれど、歯医者に通い続けている人はたくさんいる。この構造と同じです。


「嫌い」という感覚は変わることがある

「嫌いでいい」と書いておきながら、一つ正直に言っておきます。続けていると、「嫌い」という感覚が変わることがあります。

最初は本当に嫌いだった人が、3ヶ月後に「来ると気分がすっきりする」と言い始める。半年後に「来ない週があると何か物足りない」という感覚が出てくる。1年後には「嫌いかどうかより、習慣になっている」という状態になっている——こういう変化を、何度も見てきました。

ただし、これは「好きになれるから頑張れ」という話ではありません。好きになることを目標にしなくていいし、好きになれなくても問題ない。変わることがあるというのは、あくまで「続けた後に気づいたらそうなっていた」という話です。変化を目指して続けるのではなく、続けた結果として変化が起きることがある。

「やり終わったあとのすっきり感」は、嫌いな人でも感じることが多い。運動中は嫌だけど、終わった後の感覚はいい——この「終わった後の感覚」が、少しずつ「来るのが嫌ではない」という感覚に変わっていくことがあります。嫌いという入口から入って、気づいたら別の場所に出ていた、という経験です。

運動後に気分が良くなる仕組みがあります。
運動中に分泌されるエンドルフィンやセロトニン、運動後のドーパミンの変化が、気分の改善をもたらします。「終わった後の達成感」「体を動かした後の爽快感」は、運動が好きかどうかに関係なく起きる生理的な反応です。「運動中は嫌だけど、終わった後は悪くない」という感覚は、ほとんどの人が経験します。この「終わった後」の感覚を覚えておくことが、次回来るための小さな動機になります。

「楽しめる要素」を運動の中に見つける

「好きになれ」とは言いません。でも「楽しめる要素を一つ見つける」ことは、続けることを少し楽にします。

この二つは似ているようで違います。運動全体が好きになることは難しくても、運動の中の特定の何かを楽しめることはある。

終わった後にシャワーを浴びる時間が好きな人がいます。トレーニング中の音楽が楽しみな人がいます。来るついでにコーヒーを飲むことが好きな人がいます。数字が少しずつ変わっていくのを記録することに面白さを感じる人もいます。トレーナーと話す時間が楽しみで来ている人もいます。

これらはどれも、「運動が楽しい」とは少し違います。でも「ここに来ることの中に楽しいことがある」という状態は、来る理由になります。運動そのものを好きにならなくても、来ることの周辺に何か一つ楽しみがあれば、それで十分です。

この「周辺の楽しみ」を意識的に作っている人は、嫌いでも続けやすい。逆に言えば、「運動が楽しくないからやめよう」という判断の前に、「来ることの中で楽しめることを一つ作れないか」を考えてみる価値があります。


「運動しなければいけない」というプレッシャーを手放す

運動が嫌いな理由の一つに「やらなければいけない」という義務感がある場合があります。健康のために、体型のために、医者に言われたから——外から与えられた「べき」が重なって、運動そのものが義務の象徴になってしまっていることがある。

義務感と嫌悪感はセットになりやすい。「やらなければいけないのに、やりたくない」という葛藤が、「運動が嫌い」という感覚を強化していくことがあります。やらなければいけないという圧力が大きければ大きいほど、やりたくないという反発も大きくなる。

このプレッシャーを少し手放してみることが、逆に続けやすくすることがあります。「やらなければいけないからやる」ではなく「やったら少し体が楽になるからやってみる」という、義務から選択への言い換えです。小さな言い換えに見えるけれど、内側での体験が変わります。強制されている感覚から、自分が選んでいる感覚へ。

「運動が嫌い」という感覚の中に「強制されている感覚への嫌悪」が混じっている人には、この言い換えが有効なことがあります。運動そのものより、「やらされている」という感覚を嫌いだったということに気づくと、動き方が少し変わってくることがあります。


「嫌いだけど来ている」という事実の強さ

「運動が嫌い」と言いながらジムに来ている人には、好きで来ている人にはない強さがあります。

好きで来ている人は、好きだから来ている。来ること自体がご褒美になっている。でも嫌いで来ている人は、嫌いにもかかわらず来ている。来ること自体がご褒美ではないのに、それでも来ている。これは別の何かが動機になっているということで、その動機は楽しさより根強いことが多い。

「嫌いだけど来ている」という状態は、「体のために必要なことをやっている」という自己認識に繋がります。これは小さいようで大きい。「自分は体のために行動できる人間だ」という認識が積み重なると、自己効力感になっていく。自己効力感が上がると、続けることへの抵抗が下がる。嫌いだけど来ていることが、自分への信頼の積み重ねになっていく。

「好きで来ている人の方が成果が出やすい」とは必ずしも言えません。嫌いでも来ている人が、着実に変わっていくのを見てきました。来ることに正しい理由など必要ない。嫌いでも来た日は、好きで来た日と同じように積み重なります。

嫌いだけど来た日も、好きで来た日も、体への積み重ねとしては同じです。来た動機より、来たという事実の方が、体に対しては意味を持ちます。

「好きになろうとしなくていい」という許可

「運動を好きになるよう努力しましょう」というアドバイスを、私はあまりしません。好きになれるかどうかは、コントロールできないからです。好きになろうと思って好きになれるなら、最初から好きになっている。

それより「好きになれなくてもいい」という許可を自分に出すことの方が、長く続けるためには有効だと思っています。「好きになれない自分はダメだ」という自責が消えると、嫌いなまま来ることへの心理的なハードルが下がります。「嫌いで来ている自分でいい」という状態になれると、来ることそのものが楽になります。

ジムにいる人全員が運動を愛しているわけではありません。義務感で来ている人、体が心配で来ている人、家にいるとだらけるから来ている人、来ると褒めてもらえるから来ている人——動機は様々です。そしてどの動機であれ、来た日の積み重ねが体を作っていく。正しい動機で来る必要はない。好きな気持ちで来る必要もない。ただ来ればいい。


「運動以外の目的」で来ていい

ここまで読んでくれた方に、少し違う話をします。嫌いでもいいと書いてきましたが、「じゃあ何のために来ればいいのか」という問いが生まれるかもしれません。

運動以外の目的で来ていいと思っています。家にいると気が滅入るから外に出たい。誰かと話したい。一人の時間が欲しい。気分転換をしたい。日課を作ることで生活にリズムをつけたい——こういった理由で来ている方が、実際にいます。

運動そのものを目的にしなくても、来ることに意味がある状態はあります。そして来ていれば体は動く。体が動けば積み重なる。目的が何であれ、来た事実が体に刻まれていく。

「運動が嫌い」という人の中に、「ジムという場所は嫌いじゃない」という人がいます。静かで、自分のペースでいられて、誰かに評価されない空間。運動はともかく、その場所自体が悪くないという感覚。こういった感覚を大事にしていいと思っています。来る理由は何でもいい。体が動いていれば、それで十分です。


「嫌いなことを続けている人」を、私は尊敬する

この仕事をしていて、正直に言うと、好きで楽しそうにトレーニングしている人より、嫌いだと言いながら淡々と続けている人の方が、印象に残ることが多い。

「楽しい」という顔で来ている人は、来ること自体がご褒美になっているから来ている。でも「別に楽しくないんですけどね」と言いながら、それでも毎週来ている人は、何か別の力が働いている。体への責任感なのか、将来への不安なのか、習慣として染み込んでしまったのか——理由は分からないけれど、楽しくないことを続けているという事実の重さがある。

「好きじゃないのに来られるんですね、すごいですね」と言うと、多くの方が「別にすごくはないですよ、来なかったら後悔するから来てるだけです」と返します。この言葉の中に、長く続けられる動機の本質があると思っています。楽しさではなく、来なかったことへの後悔を避けること。これはネガティブな動機のように聞こえるけれど、非常に安定した動機です。楽しさは波があるけれど、後悔のなさへの希求は揺らぎにくい。


運動が嫌いで構いません。好きになれなくても大丈夫です。嫌いなまま来ることができれば、それで十分です。

好きかどうかより、来たかどうかの方が、体への影響は大きい。この順番を間違えないでほしいと思っています。「好きになってから来よう」では、いつまでも来られない。嫌いなまま来てしまえば、体は変わっていく。そして気づいたら、嫌いという感覚がどこかに行ってしまっていることがある。

嫌いでいい。来ればいい。それだけです。

「運動が嫌い」という言葉を抱えながらジムに来ている方へ。その言葉を持ったまま来てくれていることが、すでに何よりの答えだと思っています。嫌いなのに来ている。それは「嫌い」より強い何かが、あなたの中にあるということです。その何かを大事にして、続けていってほしいと思っています。

好きかどうかより、来た日の積み重ねが体を作る。嫌いなまま来た日も、好きで来た日と同じように、体に刻まれていきます。

嫌いという言葉を持ったまま来ていい。その言葉が変わるかどうかは、後からついてくる話です。

「運動が嫌い」という方こそ、ぜひ一度話しましょう。
嫌いなまま続けられる形を、一緒に考えます。

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